2006/04/17(月)第3回『郭泰源』

2006/04/17 24:33

1984年のロサンゼルスオリンピック。この大会では、野球が公開競技として実施されました。日本は前年のアジア予選で敗退していましたが、東西冷戦の影響でキューバがボイコットして枠が一つ空いたため、幸運なことに出場権が転がり込んできました。この頃からラッキーだったんですね、野球の日本代表は。

さて、日本は予選リーグを2勝1敗で通過し、準決勝に進出します。この準決勝で日本の前に立ちふさがったのが台湾のエース、郭泰源でした。郭はMAX158キロのストレートを武器に、日本打線を押さえ込んでいきます。最終的には荒井のタイムリーで日本がサヨナラ勝ちしたものの、「郭泰源」という名前は多くの関係者、ファンの間に知られることとなりました。

そしてその年のオフ、西武、巨人とメジャーリーグ数球団の間で郭の争奪戦が繰り広げられました。その結果、郭は西武に入団することになりましたが、今考えるとよく巨人に勝てたものだと思います。

ちなみに、争奪戦に敗れた巨人が改めて獲得したのはカムストックです。

            G    W    L    S    ERA
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 1985  巨人   21    8    8    0   4.19
 1986  巨人    3    0    2    0   7.84
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            24    8   10    0   4.47

QMA3のスポーツキューブの問題文的には活躍したことになっていますが、まぁ、ハズレではないというだけでやっぱり微妙ですよね。この争奪戦での勝利がいかに大きかったかお分かりいただけたかと思います。

さて、1985年から西武でプレイすることになった郭は、その期待に応えて見事な活躍を見せます。1年目は登板数が少なく9勝に止まったものの、6月4日の日本ハム戦でノーヒットノーランを達成。2年目はストッパーとして16セーブを上げてリーグ優勝、日本一に貢献しました。

3年目からは再び先発に戻り、長い間ローテーションピッチャーとして活躍。最多勝争いに絡むことはほとんどありませんでしたが、毎年コンスタントに二桁勝利を積み重ね、防御率も2点台から3点台前半と安定した成績を残しました。ちなみに3年目以降の勝敗は103勝56敗。実に.647という高い勝率を残しています。単年であればこれ以上の成績を残す選手はたくさんいるでしょうが、10年近く活躍してこれだけ安定した成績を残せる選手はほとんどいないでしょう。

これだけ長い間活躍を続けられたのは、上手いことモデルチェンジができたからだと思います。入団直後の郭は剛速球を武器に活躍し、そのピッチングスタイルから「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれました。彼の速球を観客にアピールするために、西武ライオンズ球場にスピードガンが設置されたとも言われています。

しかし、度重なる肘の故障に悩まされるようになってからはスタイルが一変しました。スピードは140キロ台前半に抑え、絶妙のコントロールと伝家の宝刀スライダーで打者を打ち取るピッチャーに生まれ変わったのです。もともと、速球派にしてはコントロールがいい方ではあったのですが、変身後の彼のコントロールはまさに針の穴を通すようでした。140キロ台を出しながらここまでのコントロールがあれば、そりゃそうそう負けるわけがありません。

そして、彼を語る上で外すことができないエピソード、それが近鉄戦での強さです。80年代後半から90年代前半にかけてのパ・リーグは西武、近鉄の2強時代が続き、ペナント終盤の直接対決は「事実上の日本シリーズ」と呼ばれるほど大事な試合でした。そして、郭はこの近鉄戦に滅法強かった。特に1991年などは、15勝のうち7勝を近鉄戦で上げる荒稼ぎ。同じ時代に東尾が、渡辺久が、工藤が、石井丈がいたため、郭がエースと呼ばれることはついにありませんでしたが、黄金時代でもっとも優勝に貢献したピッチャーであるのは間違いないでしょう。

さて、長期間にわたって活躍を続けた郭は、1996年のオフには外国人選手として初めてFA権を獲得し、規定により外国人枠の対象外となりました。しかし、翌年の郭はわずか1試合の登板に終わり、3年ぶりの優勝に貢献することはできませんでした。そしてそのままユニフォームを脱いでいます。晩年の郭はガングリオンに苦しめられ、万全の状態で投げられることがあまりありませんでした。これさえなければ、もう何年かは活躍できたと思うと残念でなりません。

西武ライオンズ黄金時代とともにあった名投手、郭泰源。彼の残した成績を眺めてみても「地味な2番手投手」という印象しか残らないでしょう。しかし、見る者に強烈なインパクトを与えるピッチングを繰り広げた彼は、まさしく「記憶に残る選手」でした。こんな凄い投手のピッチングを見ることができた私は、とても幸せ者なのだと思います。

 

□ 略歴

1962年生。台湾台南市出身。右投げ右打ち。投手。

長栄高 - 合作金庫 - 西武ライオンズ(1997年)

【投手成績】
            G    W    L    S    ERA
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 1985  西武   15    9    5    0   2.52
 1986  西武   39    5    7   16   2.91
 1987  西武   22   13    4    0   3.02
 1988  西武   19   13    3    1   2.41
 1989  西武   26   10   10    0   3.27
 1990  西武   18    9    4    0   3.54
 1991  西武   24   15    6    1   2.59
 1992  西武   23   14    4    0   2.41
 1993  西武   22    8    8    0   3.51
 1994  西武   27   13    5    0   4.98
 1995  西武   22    8    6    0   2.54
 1996  西武   14    0    6    0   7.39
 1997  西武    1    0    0    0   0.00
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           272  117   68   18   3.16
  • 最優秀選手:1991年
  • ベストナイン:1991年
  • ゴールデングラブ:1991年、1992年
  • 最高勝率:1988年、1994年
  • ノーヒットノーラン:1985年6月4日(対日本ハム)