2007/06/25(月)第7回『西武ライオンズ助っ人野手列伝(前編)』

2007/06/25 23:15

 クラウンライターライオンズの身売りにより、西武ライオンズが誕生したのが1979年。それから30年弱の歴史の中で、数多くの優良助っ人や駄目外人や駄目外人や駄目外人や駄目外人が来日しました。そんな外国人選手の中から、まずは1989年以前に入団した野手の面々をご紹介します。


□ ジャック・マルーフ

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1979  西武     129  .290  12   48  18
---------------------------------------
              129  .290  12   48  18

 1949年10月12日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。外野手。

 ラバーン大→マイナーリーグ→西武ライオンズ(1979年)。

 トニー・ミューサーとともに、西武ライオンズ初の助っ人として来日した選手です。俊足巧打の外野手で、チームトップの打率.290、146安打を放ち、1番バッターとして活躍しました。

 ……で、なぜ1年で退団しているのか、いくら調べても理由が見つからないんですがー。外国人選手にしてはホームランや打点がやや少ないような気もしますが、打順が1番であるということを考えればこんなものでしょうし、それ以外はまずまずの成績だと思うんですけど。理由をご存じの方がいらっしゃいましたらご教授ください。


□ トニー・ミューサー

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1979  西武      65  .196   2   10   2
---------------------------------------
               65  .196   2   10   2

 1947年8月1日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。内野手。

 サンディエゴ・メサ短大→ボストン・レッドソックス→シカゴ・ホワイトソックス→ボルティモア・オリオールズ→ミルウォーキー・ブリュワーズ→西武ライオンズ(1979年)。

 ジャック・マルーフとともに、西武ライオンズ初の助っ人として来日した選手、そして、西武ライオンズ初の駄目外人選手です。初年度からハズレを引くあたり、さすがは西武フロントという感じがしますね。

 日本では成功することなく帰国、引退したミューサーですが、その後、カンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任しています。しかし、748試合で317勝431敗、勝率は.424ということで、こちらでも結果を残すことはできませんでした。


□ ジム・タイロン

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1979  西武      58  .291   8   24   9
 1980  西武     128  .276  35   68   9
 1981  南海     125  .311  18   60  11
 1982  南海     124  .271  13   48  13
---------------------------------------
              435  .287  74  200  41

 1949年1月29日生。アメリカ合衆国出身。右投右打。外野手。

 パンアメリカン大→シカゴ・カブス→オークランド・アスレチックス→西武ライオンズ(1979-1980年)→南海ホークス(1981-1982年)。

 1979年後期シーズン、トニー・ミューサーの代役として急遽獲得した選手です。1年目は58試合の出場ながら打率.291とまずまずの成績を残すと、ジャック・マルーフが抜けた1980年にはトップバッターに座り、35本塁打を放つ大活躍を見せました。

 しかし、翌1981年の開幕直前、名取和彦とのトレードで南海へ移籍することになります。守備面で大きな不安があったことも理由の一つですが、テリー・ウィットフィールド獲得が決まったことでタイロン自身が移籍を志願したことが最大の理由でした。

 移籍後も活躍を続けたタイロンですが、1982年オフには南海を退団しています。タイロンと入れ替わりで南海にやってきたのは広島から移籍のジム・ライトル。ライトルといえば4年連続でゴールデングラブを獲得している強肩、好守の外野手ですから、タイロンは南海でも守備がネックになっていたのかもしれません。


□ テーラー・ダンカン

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1980  西武      64  .235  14   36   2
---------------------------------------
               64  .235  14   36   2

 1953年5月12日生。アメリカ合衆国出身。右投右打。内野手。

 アメリカンリバー大→セントルイス・カージナルス→オークランド・アスレチックス→西武ライオンズ(1980年)。

 1980年、ジャック・マルーフと入れ替わりで入団した右のパワーヒッターです。前期シーズンにチームトップの14本塁打を放ち、期待された長打力は存分に発揮したのですが、打率.235、打点36はあまりにも寂しかった。守備にも難があったため、後期シーズン前、スティーブ・オンティベロスの獲得と同時に解雇されました。

 しかし、球団買収から2年連続で駄目外人獲得とは、西武フロントもなかなかやるな。


□ スティーブ・オンティベロス

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1980  西武      65  .314  16   50   3
 1981  西武     116  .271   7   47   0
 1982  西武     122  .307  11   46   3
 1983  西武     129  .321  17   85   0
 1984  西武     129  .338  20  101   0
 1985  西武     125  .315  11   61   0
---------------------------------------
              686  .312  82  390   6

 登録名はスティーブ。

 1951年10月26日生。アメリカ合衆国出身。右投両打。内野手。

 ベイカーズフィールド大→サンフランシスコ・ジャイアンツ→シカゴ・カブス→西武ライオンズ(1980-1985年)。

 1980年後期シーズンにテーラー・ダンカンと入れ替わる形で入団した選手です。スティーブの特徴といえば、規定打席に達した5シーズン中4回も3割をマークしたシュアなバッティング……なんですが、彼の現役時代を知る人は成績よりも禿頭の方が印象に残っているでしょう。メジャー時代はカツラのCMに出演したこともあるそうです。

 また、血の気の多いところもあった選手で、デッドボールやブラッシュボールに怒りをあらわにすることも珍しくありませんでした。彼自身がピッチャーにバットを投げつけて乱闘を引き起こしたこともありますし、そうでなくとも常に乱闘の輪の中心にいたように記憶しています。

 ……と、こんなネタ話だけではなく、少しは成績の話をすることにしましょうか。

 来日2年目の1982年には西武ライオンズとしての初優勝、初の日本一に大きく貢献。特に日本シリーズではMVPに選ばれる見事な活躍を見せてくれました。以降も常に安定した成績を残し続け、日本で過ごした6年間で3回の優勝、2度の日本一に輝いています。獲得したタイトルこそ1983年の最多勝利打点だけではありますが、80年代の西武を代表する助っ人外国人選手だと言えるでしょう。


□ テリー・ウィットフィールド

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1981  西武     123  .316  22  100   5
 1982  西武     122  .272  25   71   6
 1983  西武     129  .278  38  109   2
---------------------------------------
              374  .289  85  280  13

 登録名はテリー。

 1953年1月12日生。アメリカ合衆国出身。右投左打。外野手。

 パロベルディ高→ニューヨーク・ヤンキース→サンフランシスコ・ジャイアンツ→西武ライオンズ(1981-1983年)→ロサンゼルス・ドジャース。

 その長打力と勝負強さで、80年代前半、黄金時代を築きつつあった西武を支えた名選手です。1984年にメジャーリーグ復帰を果たすまでの3年間、常に中軸打者として活躍を続けました。

 当時を知る人がテリーと聞いて思い浮かべるのは、ホームランを打った後のパフォーマンスでしょう。派手なガッツポーズをする選手や、神に感謝して十字を切る選手は珍しくありませんが、彼はホームインするとヘルメットを取って観客席に向かってお辞儀をしたのです。初めて見た時は本当に驚きました。

 また、自費で西武ライオンズ球場の年間予約席の一部を買い、子供たちを招待していたことでも有名です。前述のお辞儀の件といい、彼はファンをとても大切にしてくれる選手だったと思います。彼の買い取った「テリーズボックス」で観戦した子供たちは、きっとたくさんの夢を、希望を与えられたことでしょう。


□ ジェリー・ホワイト

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1984  西武     130  .243  27   68  12
 1985  大洋      88  .263  10   45  11
---------------------------------------
              218  .251  37  113  23

 西武での登録名はジェリー。

 1952年8月23日生。アメリカ合衆国出身。右投両打。外野手。

 サンフランシスコ市大→モントリオール・エクスポズ→シカゴ・カブス→西武ライオンズ(1984年)→横浜大洋ホエールズ(1985年)→セントルイス・カージナルス。

 1984年、メジャーリーグに復帰したテリー・ウィットフィールドに代わって入団した選手です。

 来日する外国人選手にしては珍しく脚も速く、27本塁打とチームトップのホームランを放ったものの、2割5分に満たない低打率がネックになって1年限りで退団となりました。日本野球に全く適応できていなかったわけでもないので、もう少し様子を見ても良かったのかもしれませんが、前任者が偉大すぎたために評価が厳しくなった面もあると思います。

 西武退団後は大洋に移籍しましたが、思うように実力を発揮することができず、こちらも1年限りで解雇されました。


□ ジョージ・ブコビッチ

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1986  西武     121  .265  18   67   0
 1987  西武     101  .244  14   46   0
---------------------------------------
              222  .256  32  113   0

 1956年6月24日生。アメリカ合衆国出身。右投左打。外野手。

 南イリノイ大→フィラデルフィア・フィリーズ→クリーブランド・インディアンス→西武ライオンズ(1986-1987年)。

 1986年、スティーブ・オンティベロスに代わって入団した選手です。

 「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」のおかげで、名前と独特の構えだけは有名かもしれません。また、出場した2回の日本シリーズではいずれも大活躍したため、リアルタイムで見ていた西武ファンには成績以上に印象に残っている選手だと思います。

 特に、1986年の広島との日本シリーズでは、第8戦に日本一を決める決勝のタイムリーツーベースを放ちました。彼がいなければ、あの年の激闘を制することはできなかったでしょう。ペナントレースの成績はやや物足りない感がありましたが、大舞台での活躍でファンに強烈なインパクトを与えた選手でした。


□ タイラー・リー・バン・バークレオ

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1987  西武       0  ----   0    0   0
 1988  西武     118  .268  38   90   3
 1989  西武      37  .210   6   11   0
 1990  西武      41  .196   9   22   2
 1991  広島      29  .203   2    5   0
---------------------------------------
              225  .239  55  128   5

 1962年10月7日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。外野手。

 チャッツワース高→西武ライオンズ(1987-1990年)→広島東洋カープ(1991年)→アナハイム・エンゼルス→コロラド・ロッキーズ。

 1987年途中に入団した選手で、メジャーリーグの経験はなく、西武も育成目的で獲得したそうです。そして、1年間二軍で鍛えられたバークレオは2年目に爆発。38本塁打、90打点と見事な成績を残し、チームのリーグ4連覇に大きく貢献しました。

 当時はまだ20代半ばということで、このまま成長を続ければとんでもない選手になると思われたバークレオですが、この年の活躍で慢心したのか、オフに満足なトレーニングをせずに不調のままシーズンに突入します。結局、1989年はわずか37試合の出場にとどまり、この年途中入団のオレステス・デストラーデに完全にポジションを奪われてしまいました。

 さらに翌1990年も41試合の出場に終わり、この年限りで広島に移籍しています。移籍当時は「バーク『レオ』なのに他のチームに行くのかよ!」と言われたものですが、話題になったのはこの時期くらいでした。広島が優勝した勢いに乗ることもできず、わずか29試合の出場に終わり、この年限りで退団しています。

 現在、バークレオはオークランド・アスレチックスで打撃コーチを務めているそうです。努力して結果を残すこと、そして慢心して伸び悩むこと、その両方を身を持って味わった彼なら、きっと素晴らしいコーチになれると思います。頑張ってください。


□ オレステス・デストラーデ

               G    AVG   HR  RBI  SB
----------------------------------------
 1989  西武      83  .257   32   81   4
 1990  西武     130  .263   42  106  10
 1991  西武     130  .268   39   92  15
 1992  西武     128  .266   41   87  12
 1995  西武      46  .245    6   23   1
----------------------------------------
              517  .262  160  389  42

 1962年5月8日生。キューバ共和国出身。右投両打。内野手・外野手。

 フロリダ大→ニューヨーク・ヤンキース→ピッツバーグ・パイレーツ→西武ライオンズ(1989-1992年)→フロリダ・マーリンズ→西武ライオンズ(1995年)。

 1989年途中、不振のタイラー・リー・バン・バークレオの代役として入団した選手です。1990年から3年連続本塁打王、2年連続打点王を獲得し、西武の黄金時代を支えました。

 デストラーデについては過去にこのコーナーで紹介しているので*1、詳しくはそちらをご覧ください。