2007/07/02(月)第8回「西武ライオンズ助っ人野手列伝(中編)」

2007/07/02 23:22

 全国の駄目外人マニアの皆さん、お待たせ致しました。中編となる今回は、駄目外人の宝庫である1990年代に西武に入団した選手たちをご紹介します。


□ ホセ・トレンティーノ

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1993  西武      30  .198   1    6   0
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               30  .198   1    6   0

 1961年6月3日生。メキシコ合衆国出身。左投左打。外野手。

 テキサス大→ヒューストン・アストロズ→西武ライオンズ(1993年)。

 1993年、メジャーリーグへ移籍したオレステス・デストラーデの後釜として入団した選手です。しかし、攻守ともに結果は散々なものでした。

 開幕からバットにボールが当たる気配がせず、成績も低空飛行を続けます。当時のスポーツ紙などでは、エラーをすれば「取れんティーノ」、凡退すれば「打てんティーノ」とからかわれたものです。オープン戦では好調だったこともあり、首脳陣もしばらくは我慢して起用を続けましたが、2割に満たない打率ではやはり使い物にならず、シーズン序盤で戦列を離れることになりました。

 前年まで活躍していたデストラーデが偉大すぎたということもありますが、それにしても酷かった。西武ライオンズの歴史の中で一、二を争う駄目外人だと思います。


□ マイク・パグリアルーロ

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1994  西武      80  .263   7   47   3
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               80  .263   7   47   3

 1960年3月14日生。アメリカ合衆国出身。右投左打。内野手。

 マイアミ大→ニューヨーク・ヤンキース→サンディエゴ・パドレス→ミネソタ・ツインズ→ボルチモア・オリオールズ→西武ライオンズ(1994年)→テキサス・レンジャーズ。

 お待たせ致しました。店舗大会で出題されると笑いが起こってしまう、「パグ様」「パグなんとかさん」ことマイク・パグリアルーロ選手の登場です。え? 笑いが起こるのは俺のせい? ほっといてくれ。

 さて、パグリアルーロは1994年、ホセ・トレンティーノに代わって入団しました。バークレオ→デストラーデ→トレンティーノ→パグリアルーロという助っ人の変遷を見て、「西武は変な名前の選手を優先的に取ってるんじゃないか?」などと言われたものです。いや、もちろんそんなわけはないんですが。

 彼をリアルタイムで見ていない若いQMAプレイヤーの方々は、異様に盛り上がっているおっさん連中を見て「どうしようもない駄目外人」というイメージをお持ちかもしれませんが、実はそこまで絶望的な成績だったわけではありません。クリーンアップを任せるには物足りない成績ですし、ペナントレース終盤は控えに回ることも多かったですが、日本シリーズでも代打で起用されています。完全に戦力外だったわけではないんですよね。もちろん、駄目外人であることには変わりがないんですけど。


□ ロッド・ブリューワ

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1994  西武      74  .232   8   31   1
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               74  .232   8   31   1

 1966年2月24日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。外野手。

 フロリダ大→セントルイス・カージナルス→西武ライオンズ(1994年)。

 1994年開幕直前に駆け込みで入団した選手です。左のパワーヒッターという西武にはあまりいないタイプの選手ということで、多大な期待を寄せられての入団でしたが、単に大型扇風機を一台増やしただけという結果に終わりました。

 しかし、当時の西武ではレギュラーと呼べる外野手が佐々木誠だけだったため、ブリューワはこんな成績でも74試合に起用されています。この時期の西武打線の苦しさを象徴するような選手だったと言えるでしょう。


□ ダリン・ジャクソン

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1995  西武     128  .289  20   68   9
 1996  西武     126  .266  19   64  10
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              254  .277  39  132  19

 1962年8月22日生。アメリカ合衆国出身。右投右打。外野手。

 カルバーシティ高→シカゴ・カブス→サンディエゴ・パドレス→トロント・ブルージェイズ→ニューヨーク・メッツ→シカゴ・ホワイトソックス→西武ライオンズ(1995-1996年)→ミネソタ・ツインズ→ミルウォーキー・ブリュワーズ→シカゴ・ホワイトソックス。

 2年続けて駄目外人を掴まされた西武が1995年に獲得した現役メジャーリーガーです。走攻守三拍子揃った外野手で、主に1番バッターとして活躍しました。1年目の1995年にはオールスターゲームにも選ばれています。

 入団当初は「D・J」という登録名も検討されていたそうですが、オリックスのダグ・ジェニングスに先を越されてしまい、結局本名での登録となりました。ちなみにこの時、ジャクソンは「メジャーでは俺がD・Jと呼ばれていた。どっちが本物のD・Jか見せてやる!」と激怒したそうです。

 上記のようなエピソードを見ると、プライドが高くて日本には馴染めないタイプにも感じますが、決してそんなことはありませんでした。黄金時代を知る選手たちが続々とチームを去り、若手中心の構成となったチームを積極的に引っ張って、グダグダになりかけていた「東尾西武」を形にすることに多大な貢献をした選手だと思います。

 ジャクソンは2年間プレイした後メジャーに復帰したため、日本で優勝を味わうことはありませんでしたが、彼を慕っていた若手選手たちの活躍もあって西武は1997年、98年とリーグ連覇をしました。もしジャクソンが西武に来ていなければ、この連覇もきっとなかったことでしょう。


□ スコット・クーパー

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1996  西武      81  .243   7   27   1
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               81  .243   7   27   1

 1967年10月13日生。アメリカ合衆国出身。右投左打。内野手。

 パットンビル高→ボストン・レッドソックス→セントルイス・カージナルス→西武ライオンズ(1996年)→カンザスシティ・ロイヤルズ。

 1996年、強打の左バッターとして入団した選手です。しかし、どのへんが強打なのか聞きたくなってしまうような成績しか残せませんでした。

 とりあえず落ちる球を投げておけば食らいつくので、ピッチャーにとってはとても攻めやすい選手だったと思います。かといって速球に強いわけでもなかったので、配球さえ間違えなければ痛い目には合わない選手でした。当然、そんな状態ではレギュラーを張り続けることはできません。鈴木健の台頭などもあって、シーズン終盤は出番をもらうことがほとんどありませんでした。


□ ドミンゴ・マルティネス

               G    AVG   HR  RBI  SB
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 1997  西武     130  .305   31  108   3
 1998  西武     133  .287   30   95   4
 1999  巨人      83  .324   16   56   1
 2000  巨人     111  .288   17   64   0
 2001  巨人      81  .237   10   27   1
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              538  .293  104  350   9

 1965年8月4日生。ドミニカ共和国出身。右投右打。内野手、外野手。

 ラ・リザベラ・グスタボアドルフォ・ベカール高→マイナーリーグ→トロント・ブルージェイズ→マイナーリーグ→西武ライオンズ(1997-1998年)→メキシカンリーグ→読売ジャイアンツ(1999-2001年)。

 1997年、フリーエージェントで巨人へ移籍した清原和博に代わる大砲として獲得した選手です。1997年、98年の西武のリーグ連覇や、2000年の巨人の日本一に大きな貢献をしました。

 そんなマルティネスですが、来日直後から大活躍したわけではありません。1997年の開幕当初はマルティネスがファーストを守り、キャッチャーが本職の高木大成がDHに入っていました。マルティネスは開幕2戦目でホームランを放つものの波に乗り切れず、また、守備ではミスを連発してしまいます。しかし、「これなら未経験の高木大の守備の方がまだマシなんじゃないか?」ということでDHとファーストを入れ替えたところ、これが驚くほどの効果を上げました。

 守備の重圧から解放されたマルティネスは打ちに打ちまくり、最終的には3割30本塁打3盗塁をクリアする大活躍。高木大は逆に守備につくことで打撃のリズムを作り、打率.295、24盗塁という見事な成績を残すとともに、守備でもセンスを発揮してゴールデングラブを獲得しました。いやー、守備ひとつでここまで変わるものなんですね。

 マルティネスは2年目の1998年も安定した成績を残し、チームのリーグ2連覇に大きく貢献しましたが、「守れないこと」を理由にその年限りで解雇されました。確かに、西武は2年続けて日本シリーズで敗れており、その原因の1つに「DHの採用されないセの球場のゲームでマルティネスを起用できないこと」があったのは事実です。しかし、そもそも日本シリーズに出るためにはペナントレースを制する必要があり、そのためにはマルティネスの力はなくてはならなかったはずです。この解雇は愚かな判断だと言わざるを得ないでしょう。実際、翌年の外国人野手は球団史上最悪のラインアップだったのですから。

 さて、翌1999年はメキシカンリーグに所属していたマルティネスですが、打線の迫力不足に悩む巨人から声がかかり、6月から再び日本でプレイすることになります。ファースト以上に慣れない外野を守らされたり、清原との併用で出番が減らされたりと、西武時代ほど環境に恵まれていなかったために苦しんだ面もありますが、その長打力と勝負強さは健在でした。


□ ルディ・ペンバートン

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1997  西武      25  .175   1    5   2
 1998  西武      38  .275   5   15   2
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               63  .227   6   20   4

 1969年12月17日生。ドミニカ共和国出身。右投右打。外野手。

 ギャストン・フェルナンド・デリートネ高→マイナーリーグ→デトロイト・タイガース→マイナーリーグ→ボストン・レッドソックス→西武ライオンズ(1997-1998年)→起亜タイガース→誠泰コブラズ。

 1997年途中に来日した選手です。この年、開幕前は4番候補と言われていた垣内哲也を負傷で欠いていたため、長打力のある外野手が必要だったという背景からシーズン途中での獲得となりました。

 初年度は怪我もあって満足な結果が残せませんでしたし、2年目も出場試合が少し増えた程度で大した成績ではありません。しかし、ペナント終盤の大事な試合で4番を任され、きっちりホームランを放って結果を残すなど、試合数の割には強烈なインパクトを残しました。「記憶に残る」と言うほど大げさなものではありませんが、東尾西武のことを思い出す時に名前が出てくる選手ではあると思います。本当に不思議な選手でした。


□ ブライアン・ラービー

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1998  西武      37  .277   2   12   1
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               37  .277   2   12   1

 1967年11月5日生。アメリカ合衆国出身。右投右打。内野手。

 ミネソタ大→マイナーリーグ→ミネソタ・ツインズ→マイナーリーグ→コロラド・ロッキーズ→西武ライオンズ(1998年)。

 1998年に獲得した選手です。来日する外国人選手にしては珍しく、セカンドを守れる選手でした。

 そのセカンドの守備に関しては、上手いと言うほどではありませんでしたが、まずまず無難なところだったと思います。しかし、いかんせんバッティングにパワーがなさすぎました。37試合でわずか2本塁打というのは外国人選手としては寂しすぎます。結局、シーズン中盤以降は高木浩之にレギュラーの座を奪われ、この年限りで退団しました。


□ アーキー・シアンフロッコ

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1999  西武      15  .163   2    5   2
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               15  .163   2    5   2

 1966年10月6日生。アメリカ合衆国出身。右投右打。内野手。

 パーデュー大→モントリオール・エクスポズ→サンディエゴ・パドレス→西武ライオンズ(1999年)。

 さて、ここからは1999年に在籍した外国人選手たちをご紹介します。西武ファンの方々はハンカチのご用意を。

 まず1人目はアーキー・シアンフロッコ。ドミンゴ・マルティネスを「守れない」という理由で解雇した西武が、その後釜として獲得した「守れる」内野手です。内外野どこでも守れるという触れ込みだったシアンフロッコは、西武では主にサードを守りました。

 しかし、その守備は下手とは言わないまでも球際に弱く、エラーを連発してしまいます。しかも、バッティングの方がかなりアレだったため、あっという間に二軍落ちしてしまいました。なにしろバットにボールが当たりませんでしたからね。むしろ、よく2本もホームランを打てたものだと思います。

 結局、打てず守れずという選手は起用する場面もないわけで、シーズン途中であっさり解雇されました。


□ グレッグ・ブロッサー

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1999  西武      34  .198   3    9   3
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               34  .198   3    9   3

 1971年6月26日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。外野手。

 サラソタ高→マイナーリーグ→ボストン・レッドソックス→マイナーリーグ→西武ライオンズ(1999年)。

 1999年、アーキー・シアンフロッコと同時に獲得した左のパワーヒッターです。ドミンゴ・マルティネスの退団により大砲と呼べる選手がチームにいなくなったため、ブロッサーには大きな期待が寄せられました。

 しかし、いくらパワーがあってもバットに当たらなければホームランにはならないわけで、「シアンフロッコよりちょっとはマシだよね」という程度の成績しか残せずあっさり二軍落ち。結局、球団に第3の外国人選手、アラン・ジンターを獲得させることになってしまいました。


□ アラン・ジンター

               G    AVG  HR  RBI  SB
---------------------------------------
 1999  西武      61  .202   8   28   2
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               61  .202   8   28   2

 1968年5月19日生。アメリカ合衆国出身。右投両打。捕手、内野手。

 アリゾナ大→ニューヨーク・メッツ→デトロイト・タイガース→ボストン・レッドソックス→シアトル・マリナーズ→シカゴ・カブス→西武ライオンズ(1999年)→シカゴ・カブス→ヒューストン・アストロズ→アリゾナ・ダイヤモンドバックス。

 アーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーが揃って外れだったため、1999年5月に急遽獲得した選手です。アメリカではメジャーの経験はなく、「西武は初めてのメジャーのチーム。一員になれて光栄だ」という来日時の謙虚なコメントから、性格的にも日本向きかと思われました。そして、デビュー戦でいきなり満塁ホームランを放ち、「これで貧打解消だ!」と西武ファンを狂喜させます。

 しかし、調子が良かったのは最初だけで、成績はどんどん下降していきました。当時の西武は大砲不在だったために4番を務めた試合もありましたが、夏場の大事な時期についに二軍落ち。そのまま一軍には戻ってきませんでした。

 ちなみに、1年限りで西武を退団したジンターは、3年後の2002年、34歳にして初めてのメジャーリーグ昇格を果たしています。


□ コーリー・ポール

               G    AVG  HR  RBI  SB
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 1999  西武      59  .257  12   29   3
 2000  西武      47  .242   4   18   1
 2001  西武       0  ----   0    0   0
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              106  .251  16   47   4

 1969年6月21日生。アメリカ合衆国出身。左投左打。外野手。

 グレンデール大→サリナス→グレイス→トライシティ→チコ→トライシティ→声宝→西武ライオンズ(1999-2001年)→現代ユニコーンズ→ファーゴ・ムーアヘッド・レッドホークス。

 アーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーに加えて、途中入団のアラン・ジンターまで外れだったので、移籍期限直前の6月に獲得した選手です。3人も外れてしまったのなら素直に諦めて、打てないことを前提に守備重視のチームを作ればいいのでしょうが、当時の西武はそれが許されませんでした。

 なぜなら、1999年は松坂大輔のルーキーイヤーであり、女性ファンを中心に「松坂くんの援護が少ない!」という声が上がっていたからです。もちろん西武ファンは「いや、松坂だろうが西口だろうが石井貴だろうが、みんな平等に援護は少ないから」と心の中でツッコんでいましたが、普段野球を見ていない人にそんなことが分かるはずもありません。切ない。

 さて、ポールの話に戻りましょう。ポールはデビュー戦でホームランを放つなど、1年目は59試合で12本塁打とまずまずの成績を収めました。いや、ぶっちゃけ外れに近い成績なんですが、他の3人と比べてしまうとこれでも立派な成績に見えてしまいますよね。

 1年目にそこそこの数字を残したこともあり、2年目の飛躍が期待された2000年シーズンですが、ポールの前に大きな壁が立ちはだかりました。トニー・フェルナンデスとレジー・ジェファーソンという大物2人が西武に入団したのです。結局、フェルナンデスが故障で登録抹消された時や、ジェファーソンが途中帰国した後にしか出番がなく、前年を大きく下回る成績しか残せませんでした。しかし、その鬱憤を晴らすかのように二軍で大暴れし、二軍では2人目、イースタン・リーグでは史上初となる三冠王を獲得しています。

 さて、フェルナンデス、ジェファーソンが揃って1年で退団したため、3年目のシーズンはチャンスが回ってくるかと思われましたが、神様はどこまでも意地悪でした。2001年に入団した外国人選手はアレックス・カブレラとスコット・マクレーン。この2人は「ツインバズーカ」と呼ばれ、それぞれ49本塁打、39本塁打と打ちまくったため、ついにポールが一軍に呼ばれることはありませんでした。二軍では史上初となる2年連続三冠王を獲得したものの、さすがにこの年限りで退団となります。チャンスがあれば化けたかもしれませんが、どこまでもツキのない選手でした。